風の町 バス

2018年01月23日


 私と老婆を乗せたバスは、シャッター街になった駅前通りを抜け、県道を北に向かって走っていく。老婆は烏川にかかる橋の傍にあるバス停で降りていった。昭和の頃、M町に住む誰もがこのバスを使ったが、車の所有者が増えると利用客は減った。十年前、バス会社は廃止を決めたが、町民の強い存続希望があり、運用費用のほとんどを町が負担することでバス路線は残った。今でも田んぼの中に「バスを使おう、バスを残そう」という字の消えかけている古い大きな看板が立っている。しかし存続運動から三年もすると、殆どの町民はバスを使わなくなった。

 一日に数人の老人しか乗らないバスがK駅とM町の間を朝夕だけ二往復している。

 老人が降りた後、バスは一回もバス停に止まらずM町に向かって走り続けた。窓の外には、送電線の鉄塔が北に向かって並んで立ち、その先には子持ち山、そして夕日を映す白い谷川岳が見えていた。

 M町商店街入り口という小さなロータリーになった停留所にバスは止まった。バスはこの場所に二時間ほど止まった後、K駅まで再び引き返していく。トタン屋根で木造の停留所は全く整備されておらず十年前と変わらない。昭和の懐かしい風情を残しているため、ここに降りる度に、若い自分に引き戻された。

 十八歳の春、私はこの停留所からバスに乗った。

 あの日は、今日のような激しい空っ風は吹いていなかったし、停留所はK駅へ向かう客で賑わっていた。母が用意してくれた衣類が詰まったバックを持って、新しく始まる都会での暮らしを想像しながら私はバスを待った。町や東京へ向かう乗客に混じって私はバスに乗る。「いつでも帰ってきな」と言って下を向いた。あの時、母はどんな気持ちだったのだろうか。私の頭は志望大学に合格した喜びと、新しい生活のことでいっぱいであった。地元の県立大学に行くことを期待していた母にしてみれば、息子を東京に送り出すことは淋しかったのに違いない。

 東京で一人暮らしを始めると、母は週に一回、私に手紙を送ってきた。金がなくてアパートに電話が引けなかった時代、私と母を繋ぐものが毎週の手紙であった。最初は東京の風景だのアパートの様子だのを手紙に書いた。足の悪い母を東京に呼んで引っ越しを手伝わせることは気の毒だったので、私一人でアパートを決めた。そのため母は私がどんなところに住んでいるか知らなかった。

 大学生活に慣れて都会の生活に馴染んでいくに伴い、母の字を見るのが辛くなった。手紙は否応なしにM町に私を引き戻し、淋しい気持ちを心に立ち上がらせた。私は仕送りだけを抜き取ると、母の手紙は読まずに机の引き出しに押し込んむようになった。

 東京生活した始めての冬だ。返事がないのを心配した母は、生活費を持って、アパートのある駅まで訪ねてきた。道に迷ってしまい駅前交番から電話してきた母を迎えに行くと、中年の巡査が「お母さんに、きちんと連絡しなけりゃだめじゃないか」と私を諭した。羞恥心は怒りに似た感情に変わり、私はその場から逃げ出したくなった。交番を出ると母は「どっかで一緒にご飯でもたべるかい」と言った。「なんでわざわざ出てきたんだよ」と私は言って金の入った封筒を母親から奪いとり、「バイトがあるから、もう行くよ」と母と駅前で別れた。

 バイトがあるというのは嘘であった。

 アパートに向かって歩いたが、八百屋の前で、私には激しい悲しみが込み上げてきた。下仁田ねぎという、いつも見かける値札を見た時、私は母の元に戻らないといけないと思った。方向を変えて全速力で走り、駅の待合室やホームに母を捜したが、母は、もうそこにはいなかった。

 あの時以来、母は一度も東京に来なくなった。そして母からの手紙も減った。私と母の距離は遠くなった。あの頃の母は、故郷の家で一人で何を考えていたのだろうか。私よりも、ずっと辛い激しい孤独感をどういうふうに心に納めていただろうか。今ではわからない。それは母の強さだったと、自分に言い訳をするしかない。