風の町 母

2018年01月22日

 都内の製薬会社に就職すると、生まれた町は更に遠くなった。母だけでなく町の同級生も、私が地元に戻ると思っていたが、もう私の心からM町は消えかけていた。私は年に二回か三回しかM町には帰らなかった。私は東京の生活に染まり、やがて、会社の後輩で東京育ちの敬子と知り合った。敬子のことを母に告げたが、母は「お前が気に入ったのなら、いいんよ。でも母ちゃんはその人には会いたくない」と言った。私は母の気持ちを振り切って東京で所帯を持った。私は敬子を一回だけM町に連れて帰ったが、敬子は何もない町を見て「本当に何もないのね」と言った。母は敬子を生家には入れなかった。もともと人付き合いが下手だったし、貧相な家の中を都会の嫁に見せたくなかったのであろう。今思えば、敬子が私から去っていくことを、母は直感的に感じていたのかもしれないとも思う。実際に、敬子は結婚後三年すると、私を捨てて出ていった。「いつになっても心が繋がらない」というのが理由であった。

 母のところに帰るようになったのは三年前からだ。母が軒先で足を滑らせ骨を折ると、一人で外出することが出来なくなった。母の生活範囲は家の中と庭先だけになり、私は同級生で町役場に勤める木村幹夫に頼み、介護保健の手続きを済ませた。やがてホームヘルパーがやってきて、買出しや入浴を介助してくれるようになった。私は月に三回くらい土曜の夜に泊まったが、もともと言葉の少ない母とは、話すこともあまりなかった。電気炬燵に二人で座りテレビを見ていると、私に気を遣うように「仕事はどうだい」と母は訊いたが、「大丈夫だよ」と答えた。当時の私は、母への愛着よりも、好き放題に生きてきた罪悪感で帰っていただけである。日曜は、買い出しの手伝いや、家の周りの掃除をして、夕方には東京に戻った。

 今年の二月のひどく冷え込んだ日の朝であった。布団の中で冷たくなっている母を、訪問したヘルパーが発見した。七十九歳の母の人生はあっけなく終わった。木村から連絡が入り急いで家に帰ると、木村はすでに家の周りの女達をあつめてくれている。「母ちゃん、かわいそうだったなあ」とだけ木村は言った。

 母の顔を見ても私には悲しみがわき上がらなかった。頭の中には、葬式にかかる時間と費用、会社に置いてきた仕事ばかりが浮かんでいた。母の葬式には、ほとんど人が来なかった。親戚、数人の近隣の住民だけが出席した小さな式だった。母の世界は小さかった。

 母の死は、他人事のようでもあった。東京の生活に戻り、デスクに山のように詰まれた書類や取引き先からの電話に対応しているうちに、母のことは記憶の脇に追いやられていった。四十九日や納骨も木村が手伝ってくれたが、その時の一連の行動についても、はっきりとした実感がいない。