風の町 ラスト

2018年01月02日

 たぬきのドアを開け外に出た。服の隙間から冷い風が入り込んで来る。コートの襟を立てた。たぬきの前の赤い提灯が、冷たく乾いた風に揺れてぶつかりガサガサと音をたてている。たぬきの駐車場には帰りの酔客を待つ代行車が二台止まっている。麻美との再会で小学生に気持ちが戻ったのだろうか。私は、天体少年になった気分で南の夜空にオリオン座を探した。風の強い夜は星が良く見えた。星を見ながら県道をゆっくりと歩いた。オリオン座の三ツ星が見つかると、大犬座、おうし座と次々と見つかった。全部、母から教えてもらった星座であった。

 家についた。

 オフィスの鍵に混じっている母の家の錆びた古い鍵でドアを開けた。家は母が住んでいた頃のままである。母の部屋に入り蛍光灯の紐を引っ張って灯りをつけた。仏壇にある母の写真を眺めてみる。写真の母は照れくさそうにしている。葬式の時に困ったのは母の写真が無かったことだ。人付き合いが下手な母には友人が殆どいなかった。古い写真が一枚出てきたが、それは母が四十代のものであった。写真の母は老人ではなく、今の私と同じ年である。仏壇の前の畳に横になり、母の使っていた布団を2枚かけて寝た。母の匂いが残っているような気がした。

 夢を見た。

 私と母が、居間の炬燵に座っている。母は裁縫をしながらテレビを見ている。母は、「秀、そろそろ寝る時間だよ」と言った。私に微笑む母の顔は、いつのまにか麻美に変わっていた。はるか昔に体験した家族の暖かさが心に蘇っていた。夢の余韻によいながら、もう一度眠りについた。

 トントンとドアを叩く音がする。枕元に置いた腕時計を手にとって見ると朝九時であった。慌ててシャツとズボンだけを身につけて、玄関のドアを開けると麻美が立っている。

 「昨日は、何も言わずに先に帰ってしまうんだもの、上がってもいいかな」と麻美が話しかけてきた。私は「ちょっと待って」と言って、部屋に戻り布団をまとめて押入れにしまい、電気炬燵のスイッチを入れて麻美が座る場所を作った。

 「どうぞ、何もないよ」と私は麻美に声をかけた。麻美は「わー、秀ちゃんちって、ぜんぜん変わってないのねえ。懐かしい」と言って、部屋の中を歩きまわった。麻美は仏壇の前に座ると線香をあげ、母の写真に手を合わせた。お茶でも出そうかと思ったが、ガスが止まっていることを思い出した。「何か買ってくるよ」と言って立ち上がろうとすると、「はい、これ」と麻美はペットボトル入りの暖かいお茶を私に手渡した。

 麻美が私の顔をのぞき込むようにして、「でもさ、秀ちゃんって目とか口元とか昔と同じだよね」と言うと、かび臭い部屋の匂いに麻美の付けている香水の匂いが混ざった。麻美は昔と同じ笑顔を浮かべ「懐かしいもの、見せてあげる」と言って、「あさみちゃんへ」と書かかれた古い封筒を差し出した。封筒の中には、私と麻美が並んで写っている色あせたセピア色の写真が入っていた。小学校の入学式の写真であった。背筋をピンはって両手を伸ばして前を見ている麻美と、少しうつむき加減で自信なさそうにしている私がいる。二人ともランドセルをしょって、後ろには満開の桜、その間には木造の小学校が写っていた。写真を裏返してみた。そこには、見慣れた母の字で「秀といつまでもなかよくしてあげてください」と書かれていた。「秀ちゃんのお嫁さんになる」と麻美が言っていたことを思いだした。

 「本当は、お葬式に出たかったの。でも、なんだか町が遠くなっちゃってさ。私も両親が亡くなってから、この町に帰らなくなっちゃった。今も兄嫁とは仲良くないしね。この町って、都内から近いようで遠いのよ。中途半端な距離。これが東北や北陸だったら故郷って感じがあるんだろうけどね。きっと盆や正月に人が大勢集まって帰郷って感じになるのよね。すぐに帰れると思うとかえって足が遠のくのよ」と話を続けた。麻美が自分と同じような思いを抱き、私を思い出の中に置いていてくれたことを知り嬉しくなった。麻美は、メキシコ人の夫と離婚した後もメキシコで二年間、医療ボランティアに参加して、看護師の仕事をメキシコで続けたという。

 「別れた夫とは都内の病院で知りあったの。両親が居なくなって私も淋しかったのね。夫と一緒にメキシコに行ったけど、やっぱり外国ってダメね。すっかり私は異国の人で、うまくやれなかった。分化も違うし、毎日メキシコ料理なんかできないしね。三年くらい居たかなあ、辛いことばかりのメキシコだったけど、心に残っていることもあるんだ。ねえ、コスモスってメキシコが原産なのよ、知ってた。地方の病院に行く途中にあったコスモスの平原、あんなに沢山のコスモスを見たことなかった・・・・・・」「メキシコなんかテキーラしか浮かばないよ」「はは、そうよね。でもさあ、秀ちゃんは県立大学行くと思ってたの。お母さん一人になっちゃうし」と言った。「しょうがないよ。県立大学に入っても県庁か町役場くらいしか仕事ないし、あの頃は何でも東京だったからね、あっちゃんだって東京じゃん」

 たしかにあの時、県立大学にしていればまた自分の人生も変わっていたのだろう。県庁かどこかに就職して田舎の素朴な娘と所帯を持って、母と一緒に住んで、孫の一人や二人はいたかもしれない。母を一人で死なせることはなかったかもしれない。

 麻美は「秀ちゃんって、まだ一人なの」と聞いてきた。「いや、一回結婚したけど、かみさんには逃げられたよ」と答えた。麻美は「結婚って大変よね」とだけ言って殺風景な庭を見た。

 暫く互いの仕事や小学校時代の思い出を語っていると、十二時を告げる町のサイレンがなった。麻美は、銀色の腕時計の時間を確認すると「夕方から仕事、帰らなくちゃ」と言った。そして仏壇の母の写真に視線を移して「秀ちゃんの心にはずっとお母さんがいたんだね」とポツリと言った。麻美は「じゃあね、また会おうね」と言い残して帰っていった。

 家に一人残された私は、少し母の遺品を整理しようと思った。納骨の後、一度も家に帰っていなかったからだ。母の家は生前のままであった。台所に行ってみた。ヘルパーが、自分の使いやすい食器に買い換えてしまい、見たことのない新しい食器ばかりが並べられていた。母が使ってた食器はどこにいったのだろう、捨てられてしまったのだろうかと思って、流し台の下の戸棚を開けてみた。母が煮炊きをした鍋が二つ置いてあった。その横にある二つの茶碗が目に入った。いったい何年そこしまってあったのか、自分が中学生の時に使っていたものを母は大切にとってあった。箸や弁当箱など幼い頃に使っていた品々が、戸棚から出てきた。母は、幼い私と思い出心に置いて一人暮らしをしていたのだ。

 八畳の部屋に行き、母の使っていた箪笥を開けてみた。葬式の時には気がつかなかった母の日記帳が出てきた。それは亡くなる年のものであった。開くと母の字があった。

 「今日は暖かい一日だった」「秀にノートを買ってきてもらった」など、一日に一行だけ鉛筆で書かれていた。三日に一回程度だが、母は何年も日記をつけていた。日記は亡くなる三日前で終わっていた。最後の日記には「秀のワイシャツが、風で落ちて汚れてしまった。明日もう一度洗濯する」と、力のない字で書かれていた。私は家に帰るたびに、汚れたワイシャツを置いて帰った。母はワイシャツを洗い、アイロンかけて、私が帰る日を待った。それだけが、老いた母に残された親としての役割だった。私は、自分が結婚した頃の日記を読みたくなった。一番下の引き出しから十年前の日記を探した。しかし当時の日記の大部分は切りとられていた。母は、私がこの日記を読むことを予想していたのかもしれない。何が書いてあったのだろうか。敬子にあてた言葉であろうか。私への思いであろうか。

 一度結婚に失敗した母は、夫婦という世界を受け入れられなかった。付き合いが下手で友人のいない母には、母と子の世界しかなかった。夫婦という世界を受け入れることができなかったのは、私もまた同じであった。結婚した敬子との会話は少なかった。食事の時も、買い物に行っても、心はどこか遠くにあった。敬子は私をみて「いつも何考えているのよ」と言った。私は「何も考えてない」とだけ応えた。敬子と二人で歩いていると、一人で暮らしている母親の残影ばかりが頭に浮かび、心の中には冷たい風が吹いた。私は敬子と暮らしていたが、心には母との世界があったのだ。そして敬子は去って行った。

 私は、生まれ育った商店街を少し歩きたいと思った。

 商店街は街道沿いに五百メートル東西に伸びていた。幼い頃は、人が溢れ、買い物籠をもった婦人や走り回る子ども達の声が響いていた。しかし、暖かい時代の風景はどこにもなかった。二十年前、東京の大型スーパーが郊外に出店すると、商店街から人を奪った。今では、閉じられたシャッターと古びた看板ばかりが目に付く閑散とした風景になった。

 商店街から人が消え、そして店も消えた。

 母は商店街が消えていく様子をずっと見ていたのであろう。私は幼い頃の幸せだった時代の残影をたどるように商店街を歩いた。

 麻美の親がやっていた菓子屋。今は、新しい住宅がたっている。あの頃、麻美と一緒に奥の部屋に行くと、麻美の父親が最中を作っていた。手作りの最中が部屋一面に並べられ、それを見ていると麻美の母親が「秀ちゃん、カレーたべていきな」と声をかけてきた。カレーを食べていると麻美は新しい絵本を見せてくれた。菓子屋の隣にはクリーニング屋があった。クリーニング屋の息子の浩二は、ウルトラマンごっこが好きだった。浩二も東京に行ったまま帰らなかった。そして八百屋の八ちゃん。母に手をつながれて八ちゃんに買い物に来た。母は八ちゃんの正美さんとは話があった。父が出て行った後も、正美さんには、ずいぶんと相談していた。母の唯一の友達だった正美さんは、すっかり呆けてしまって施設に入っているという。八ちゃんという看板の文字はすっかり薄くなり、壊れたシャッターには赤錆がついていた。そして上山医院。幼い私は上山先生の顔を見ただけで、ぐずって泣いた。先生の注射はよく効いた。先生の息子の良太は高校卒業後、五年間医学部に挑戦したがどこにも受からなかった。良太は結局は医者になれず、親戚の不動産屋を手伝っている。上山先生は酒浸りで診療が出来なくなり三年前に肝硬変で亡くなった。上山医院の場所は一戸建ての新築に変わっていた。良太の夫婦がそこに居るのだろう。

 商店街の外観すらも消えようとしていた。何ヶ所も更地になり、商店街に虫食い状に穴が空き、その穴から北風が吹いて来た。風に煽られた空き缶がカランカランと音を立てて転がり、どこからか飛ばされてきた破れた新聞紙が足に絡まった。冷たく乾いた風と眼前の風景は、心を空虚にさせた。

 少し歩くと、小林種店があった。昔のままの姿で店を開いている。この店には一つ年上の武さんがいたはずだ。まだ、この店にいるのだろうか。しばらく店の前に立ち、陳列されている色とりどりの野菜や花の種を見ていると、店の奥にいた武さんが私に気づいた。「あれえ、秀ちゃんじゃないか」と私に声をかけてきた。「夕べ、小学校の同窓会だったんですよ」と言うと、「秀ちゃんの学年は仲がいんだ。俺の学年なんかもう二十年以上やってないよ。そういやさ、秀ちゃんの母ちゃん、気の毒だったなあ。秀ちゃんも仕事あるから、仕方ないよな」と武さんは言った。「武さんち、頑張ってんなあ。この通りで店やってんの、武さんちくらいじゃないの」と言うと、「本当はもう辞めたいんさ。このあたり、一人暮らしのじいちゃん、ばあちゃんだばかりだけど、みんな、うちの種、買ってくれるんだ。お得意さんがいるから、店を閉めれねんだよ」と言った。武さんは何かを思いだしたように語り始めた。

 「秀ちゃんの母ちゃんも、お得意さんだったよなあ。亡くなるちょっと前も、電話かかってきてさ、春先に秀ちゃんが帰ってきたら蒔いてもらうからと言ったんで、種を母ちゃんのところに届けたんだ。あん時は元気だったのになあ、残念だなあ」と言うと、ハイライトをくわえ百円ライターで火をつけた。

 顔を上に上げて煙りをはき出しながら「秀ちゃん、これからも帰ってくるんかい」と言った。「母の物がいろいろありますから、ときどき来ますよ」「来たら、寄ってくんない」「ええ」・・・・・・。私はたぶんもう、この町には戻らない。それは武さんも私もわかっていた。そして、社交辞令のように交わされる会話が私をひどく淋しくさせた。武さんもそうなのだろう。武さんは「じゃあ、親父をデイサービス連れていくんで」と言って店の奥にひっこんだ。

  私は家に戻った。

 母が最後に買ったという種がなんだったか気になった。母が大切なものをいれていた箪笥の引き出しを開けると。そこに小林種店と書いた茶色の紙袋が、私のワイシャツを包んである風呂敷包みの上にあった。紙袋をとりだして開けてみる。

 そこにはコスモスの種が入っていた。忘れていた記憶が蘇る。

 秋になると、麻美の家との垣根には、赤、白、ピンク、オレンジのコスモスが溢れんばかりに咲いた。幼い麻美はコスモスの花を髪に飾ったり遊んでいた。私と母と麻美の心を美しく飾ってくれたのが沢山のコスモスである。そのコスモスは、今年の秋には一輪も咲かなかった。その理由を、今、始めて理解した。

 母は、この町で生きた。私が捨ててしまったこの町を、いたわるようにして生きた。

 薄暗くなった部屋で仏壇の母に目をやると、突然、涙が流れてきた。心の奥にあった深い悲しみが大きな波のように押しよせてくる。私は仏壇の前に座りこみ、母が亡くなってから初めて声を出して泣いた。突き上げるような悲しみ、母の匂いや、母の思い出・・・...母が何度も何度も心に浮かんでは消えた。

 私はいったいどれくらいの涙を流したのだろう。一年、十年、いや二十年分かもしれない。涙が枯れて、悲しみが収まると、私の心には忘れていた暖かい風が吹いてきた。

 思い出したようにに麻美がくれた名刺をもう一度取り出してみた。麻美の名刺を裏返してみた。

 名刺の裏の写真には溢れるようにコスモスが咲いていた。        

        了